
介護の詩/後期高齢者の延長戦①映画モロッコ/老人ホームでの息遣い
後期高齢者。85才位を過ぎたら残りの人生は延長戦のような気がします。延長線ではなく延長戦です。なぜなら、他界する迄に、もがきながら悪戦苦闘する場合も多々あるからです。映画のモロッコを毎日観ていた後期高齢者様。急にADLが落ちて、ある日、失禁をされたのです。その方のADLが落ちる前と後を、口語自由詩で語ってみました。
「実は、そうだったんですね」って思える、そこに発見や再発見がある、そんな記事を書いていきたいと思います。
後期高齢者。85才位を過ぎたら残りの人生は延長戦のような気がします。延長線ではなく延長戦です。なぜなら、他界する迄に、もがきながら悪戦苦闘する場合も多々あるからです。映画のモロッコを毎日観ていた後期高齢者様。急にADLが落ちて、ある日、失禁をされたのです。その方のADLが落ちる前と後を、口語自由詩で語ってみました。
面会に来た息子を見送る母。歩道を行く息子は、どんどん遠く、どんどん小さくなっていきました。そのときは母は「切ないわね..」と口にしたのです。その瞬間を言葉にしたのがこの作品です。詩境、考察も併せてお読みくださいませ。考察の中では「切ない」を歌詞に使った歌謡曲も二曲(ルビーの指輪、思い出がとまらなくなる)取り上げました。
いよいよ死期が近くなった方への食介を通して、感じたことを口語自由詩にしました。この方は100才。おめでどう!に対しては「人に尻を拭いてもらって何が目出たいんですか?」と言い、かつてはこんなことも言いました「こんなことになるのなら、80才位の時に死んでおくんだった...」・・人生、長生き=幸せ、ではないということですね。
認知症の記憶障害は、ついに家族のことも忘れてしまいます。親の顔を見に来た息子や娘に対して、お父さんやお母さんが「どちらさまですか?」と発するのです。子にとってはとてもショッキングな出来事です。その瞬間を、老人ホームの介護の現場から紡いてみました。
「いつまでも元気でいてください」長寿祝いの定番メッセージです。ここで、”いつまでも”は、つまり”永遠”です。でも、 永遠に元気ではいられません。いつかは死にます。ならば、永遠とは単なる願望でしかないのでしょうか? それとも、永遠は何処かにあって、永遠を感じている誰かがいるのでしょうか?
「行く河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず」 日本古典三大随筆の一つである鴨長明による方丈記の冒頭です。その内容は無常観を述べていると評価されています。ならば、その結末にはいったい何が書かれているのでしょうか? 冒頭の無常観はどのような結論へと至ったのでしょうか? 方丈記の冒頭と最終段を明らかにしてみました。
空き缶(アルミ缶350ml)を潰して、その体積を約1/3にする方法です。これで空き缶ゴミは1/3に減り、ゴミを出す回数も減ります。もしも、みんながこれを実行すれば、ゴミ収集車は従来と同じ手間で、潰さない空缶を運ぶのと比べて約3倍の仕事量を実現させることができるんです。
百人一首より、月を詠んだ和歌を集めました。有明の月、夜半の月、望郷の月、夏の月、秋の月、そして月を題材にした恋歌・・、全部で十一首です。百首の内の十一首ですから、十首に一首は月の歌なのです。これは、月を好んだ証拠なのでしょうか。もしかしたら日本の名月なのかもしれません。
百人一首には「有明の月」と詠んだ和歌が三首あり、この歌はそのうちの一首です。ただ、この歌の「有明の月」は想像したものでしかありません。恋歌においては朝が来たという時間の経過に使われる「有明の月」ですが、この歌では「有明の月のような〇〇」という例えに使っています。どのような情景を例えたのでしょうか。
この和歌は百人一首の中の恋歌のひとつです。ただ、恋歌にしては情熱は乏しく、愛情表現も無く、心の内へ内へと内省しているようです。この記事では百人一首の他の恋歌も併記して、正直私の感想なのですが ”この恋歌が表現している控え目な恋心” を伝えたいと思いました。あくまで私個人の感想です。